ダーク ピアニスト
前奏曲6 花の迷宮



 「エレーゼ!」
ルビーが呼んでいた。しかし、その姿は何処にもない。エスタレーゼはぐるりと周囲を見回した。
「ルビー? 何処?」
花の影がゆったりとやさしく5月のアーチを作っていた。彼がラズレイン家に来てからおよそ2ヶ月。冷たかった冬が終わり、風があたたかい春を運んで来た。花々が一斉に開き、街を周囲を明るくした。やさしい花の影が揺れる。時折混じる冬の名残の影が囁く。

――お願い。ぼくをぶたないで
冷たい冬の名残が窓ガラスを曇らせていた頃……。彼は泣きそうな瞳で彼女を見上げていた。
――どうしてわたしがあなたをぶたなきゃならないの?
そういう彼女の顔を不思議そうに見上げて彼は言った。
――失敗したから……

スープをこぼした時も、花壇の水撒きを手伝おうとして服をびしょ濡れにしてしまった時も彼は怯えたように、ごめんなさい、と言った。彼女が留守の間に勝手に人形で遊んだ時も……。

――もう二度としません。だから、お願い。ぼくを嫌いにならないで……
――どうして? それくらいの事で嫌いになんかならないわよ
彼女が言うとルビーは安心したように微笑した。が、それでも彼はしつこく訊いてきた。
――ほんと? ほんとにぼくのこと好きでいてくれる? ずっとずーっと好きなままでいてくれる?
となかなか納得してくれずにエスタレーゼを困らせた。

「ルビー……」

――彼は病気でね。ずっと長いこと病院にいたんだ。だから、普通の子供とは少し違うところがあるんだよ
父が言った。
(少し? 違い過ぎるわ。それに……)
彼女は訝しんだ。
――だから、やさしくしてやってくれないか? 彼のことを弟だと思って……

実際、ルビーはとても可愛い子供だった。性質も素直でやさしく、顔立ちのよい彼はちょっと連れ歩けば注目を集める。自慢の弟にもなり得た。しかし、彼女と同じ15才だというのに、背も小さく、文字の認識が出来ないのは病気のせいだという。確かに彼は普通の子供とは随分違っていた。が、彼女はルビーのことが好きだった。

「ルビー? 何処にいるの?」
エスタレーゼは花の迷宮の中を探した。それは、広い敷地の中に作られた少し入り組んだ花壇だった。ルビーはそこでかくれんぼをするのが好きだった。子供っぽい彼の遊び相手をするのは疲れたが、純真な笑顔と彼が弾くピアノは、彼女にとってもほっと心を癒してくれる大切なものだったので、なるべく彼の手助けをすることにした。
「ここだよ。上」
「上ってまさか?」
彼女が見上げる。そこは屋根の上だった。
「ルビー! どうやってそんな所に登ったの? 危ないわよ、降りて来なさい」
エスタレーゼが叫んだ。
「降りるの? どうして? ここは気持ちがいいよ」
屋根の淵を歩き回りながら彼は言った。
「だめよ、ルビー。危ないわ」
「危なくないよ。君もおいでよ」
しゃがみ込んで腕を伸ばす。髪や服が風に煽られ、はたはたと靡いている。

「ルビー、お願い。もうやめて」
「わかった。それじゃやめるね」
言うと同時に彼はそこからヒラリと飛び降りた。エスタレーゼはそれを見て悲鳴を上げ、卒倒し掛けた。
「降りたよ」
ルビーが言った。太陽の光に反射して瞳がきらきら輝いて見えた。
「ルビー、あなた、大丈夫なの?」
「何が?」
「だって、今、屋根から……」
「エレーゼも行く?」
彼はエスタレーゼを抱えてすっと空中に飛んだ。
「ルビー、あなた……」
そこは屋根の上。
「ね? 気持ちがいいでしょう?」
彼は振り向いて微笑する。
「でも……何だか怖い……」
「じゃあ、やっぱり下に行く?」
と言って再び彼女の手を取るとふわりと飛んで地面に降りた。

「ルビー……あなた……」
屋根の上までは10メートル以上もある。それを自由に行き来するなど有り得ないことだった。
(一体何なの? この子は……普通の人間じゃない……!)
冬の冷気が彼女の心を支配した。
「エレーゼ……?」
その雰囲気を敏感に察してルビーが言った。
「どうして? 何故そんな目でぼくを見るの? ぼく、何も悪いことしていないのに……」
人形のような瞳……。その光り目が歪む……。

――あの子は、普通の子と少し違うんだ

(ええ。ええ、お父様……。違い過ぎるわ、何もかも……)
「ルビー……」
そんな彼女の態度を見るとルビーはゆっくり後ずさった。
「ごめんなさい……。ぼく……ぼくはただ、エレーゼを喜ばせようとしただけなんだ……! 喜ばせようとしただけなのに……。怖がらせるつもりじゃなかった……。本当に、怖がらせるつもりじゃ……なかったんだよ!」
彼は泣きながら花の向こうへ駆けて行った。
「ルビー!」
しかし、花の迷宮へ消えた少年は、いくら呼んでも出て来なかった……。

(この花の一体、何処に隠れているのかしら?)
あれからもう随分の時が流れ、エスタレーゼは大人になった。が、彼は未だに子供のまま、この花の迷宮で暮らす気紛れな蝶だった。

――ずっと、ずーっと好きなままでいてくれる?

花の影、風の影……。思い出の迷宮を彷徨う記憶……。

「何を見てるの?」
ルビーが訊いた。
「影……」
彼女が答える。
(わたしだけが年をとる……)
「見て! 白い花の冠だ」
それは大きな木にびっしりと付いた花の群れだった。
「まるで王妃様のドレスみたい……」
うっとりと見とれているルビーの瞳に白い小さな花びらが映る。
「白い蝶がたくさん飛ぶよ。きっとお城でダンスパーティーがあるんだね。僕達も行ってみよう」
(どうしてそんな風に……)
彼女の目に映るそれは菩提樹の白い花でしかなかった。

――ねえ、ずーっと僕の事を好きでいてくれる?

甘い花の香りがした。ルビーは信じているのだ。ずっと何処までも続いて行く螺旋の鼓動を……。

「ねえ、ギルと僕とどっちが好き?」
唐突に、ルビーが訊いた。
「どっちもよ」
そう答える彼女の瞳をじっと見つめて彼は言った。
「どっちも?」
ルビーが訊き帰す。
「そう。どっちもよ」
「それじゃあ、もしも僕が死んだなら、ギルが死んだ時よりたくさん涙を流してくれる?」
「何故そんな事を訊くの?」
「君の事が好きだから……」
「ルビー……」
彼らの頭上を覆う影……。それは、白い翼の形をしていた。

「まだ、僕の事が怖いの?」
「ルビー……」
10年経った今でも彼らの間には明らかな身長差があった。エスタレーゼは173cmあるのに対して、ルビーは166cmでしかない。並ぶとどう見ても彼の方が幼く見えた。そして、見た目の差異はそのまま心の成長の差異を表しているようだった。
「怖かったら一緒になんかいられないでしょ?」
エスタレーゼが微笑する。
「ただ……」
「ただ?」
「いつまでも子供ままではいられない……」
「僕はもう子供じゃないよ」
ルビーがフーッと綿毛に息を吹き掛ける。茎を離れたそれは風に乗って空に舞う。それを見てうれしそうに笑う彼。

「ねえ、綿毛は何処まで飛ぶのかな? 海を越えて日本まで飛ぶ?」
しかし、そんな彼の言葉をエスタレーゼは否定した。
「そんなに遠くには飛ばないわ」
「それじゃあフランスのパリまでは?」
「いいえ」
「それじゃ、ロンドン」
「ルビー、風に乗ってもそんなに遠くへは行けないの。ほら、さっきの綿毛がもうそこに落ちてしまっている」
「でも……」
ルビーは悲しそうにその綿毛を拾うともう一度空に飛ばそうとした。しかし、土に汚れてしまったそれは、もうさっきより飛ばなくなってしまっている。土が湿っていたのだ。その土が付いて、風に乗るには少し重くなってしまっていた。

「僕も、もう飛べなくなってしまったかしら?」
ルビーが言った。
「僕の手も汚れてしまってもう飛べなくなってしまった……」
「ルビー……」
「もう、昔のように声が聞こえないんだ。花も鳥も……君さえも、もう僕のものになってはくれない……。綿毛の夢さえ果たせずにずっと花の迷宮を彷徨っている……」
「でも、来年にはまた、ここに同じように芽を出すわ。そして、また、ここで花を咲かせる。そうやって何度も何度も世代を超えて……」
「来年も?」
「そう。来年も再来年もずっと……」
「ずっと?」
「そうよ」
「それでいいのかな?」
「え?」
「ずっとその場所で咲き続ける事がその花にとって幸せなのかな?」
「多分ね」

突然、彼の瞳から涙が零れた。
「それじゃあ、僕もずっとこのままなの?」
「ルビー……」
「ずっとここにいて、捕らわれたまま……。もう二度と外へは出られないの?ここが光だと信じて来たのに、本当じゃなかった。それがわかってももう僕は逃げられない。永久に出られない迷路の中で弾くカノンのように……。僕は誰からも愛されない……!」
「ルビー……」
瞳の奥に映る様々な色の影……。
「僕、ここが好きだよ。きれいで、花があって、君がいて……だけど、やっぱりだめなんだ。1番大切なものが見つからない……見つからないまま弾くピアノは誰の耳にも届かない……。僕が僕でいられない……」
彼は泣き出す。少年の心のままで……。
「お父様の事を恨んでる?」
エスタレーゼが訊いた。
「運命を……」
ルビーはそう言うと茎だけになってしまったたんぽぽを見つめた。

――可哀想……

部屋に流れる白い記憶……。しかし、銀色の髪の男は言った。

――君がルビーに同情する必要はない
――何故?
――奴は、自分自身でこの道を選んだのだから……

が、その言葉の意味はエスタレーゼには理解出来なかった。

「ねえ、ルビー。いつか本当に自由になれる日が来たら……」
「その時は、君のためにピアノを弾くよ」
そう言うとルビーはすっと立ち上がり、また花の道へ駆けて行ってしまった。
「ルビー……。ごめんね。きっと探せないのはわたしの方ね。そして、いつまでもあなたを困らせてばかりいる……」

――君が好きだよ

(けれど、それは本物じゃない……)

――ギルと僕とどっちが好き?

「決められないわ、そんなこと……わたしにはとても……」

――正直におなりよ

葉ずれの中から声がした。
「君は僕が嫌いなの?」
「違う。だって、わたし達、ずっと一緒に育って来て……。ずっと一緒に……。でも、それとこれとは……」
困惑する彼女に光が囁く。
「違うの?」
否定するその唇に風が指を当てる。
「だってわたし達……」


友達だからとあなたは言った
だけど、あなたは恋してる
降り注ぐ春の日の
銀の光に恋してる
僕は知ってる 気づいてる

幻の花は何処に咲く?
幻の君は何を見る?
花の迷宮
心の旅路
僕は行くよ
解けないパズルと地図を片手に……

君が恋した銀色は
僕が愛した鋭利な刃物
どんなに深く傷付けようと
どんなに強く砕かれようと
真実だけは変わらない

僕は知ってる 気づいてる
僕より大切な誰かがいること
人形が好き 愛が好き
降り注ぐ銀色の光の中で
僕は君を諦めない
たとえ道化になろうとも
錆びたネジを固く巻き
時を静かに遡り
ぎこちなく笑うお人形……
僕は踊るよ 花の中

熱い鼓動と弾丸と
唇に触れて引き裂いた
銀の炎の運命線
血に塗れた掌
僕はその手で

熱いルーレットの引き金を引く


 「ルビー……」
花の中から声がした。その歌声は少しだけ大人びてエスタレーゼの心を鋭く刺した。置き去りにされたままのままごとセット……。皿に乗せられたキャンディーは、半分包み紙を開いたまま置かれている。

――はい。これはエレーゼの分だよ

風が彼の言葉を運んで来る。

――僕は空の散歩にだって行ける。手を使わずに人の心臓を止めてしまう事だって出来る。人が何と言ったって構わない。だって、これはご褒美なんだから……

花の涙が降り注ぐ……。

――僕ね、子供の頃は自由に歩くことが出来なかったんだよ。だから、この力は神様が特別にくれたご褒美なんだ
「ルビー……」
――だから、僕はその力を使って他の誰かにいい事をする。いっぱいいっぱいいい事をして、それで……
「でも、それじゃ、あなたは……」
――僕は傷付いてもいいんだ。他の誰かが幸せになれるなら……
「でも……」
エスタレーゼの瞳に涙が溢れた。
――そう。傷付いても構わない。だけど、僕は君が欲しい
「君が僕の事を怖がっているのは知ってる。自分が醜い化け物なんだという事も……。だけど僕は……」
「ルビー……」
花の中で揺れる影……。
――愛してる

 銀のナイフが落ちていた。葉と花びらを切り刻み赤い皿に乗せてある。泥水はコーヒーカップに……。偽りの心はトースターの中に……。破り捨てられた契約書は千切られてサラダボールに……。
「そして、花嫁は花の中……。僕の手の中で眠る……」
彼はうれしそうだった。

風が時を遡らせる。破られたクロッキー……。
――選ぶのはどっちだ?
アルモスが言った。
――ルビーを助けたいの
淡い黄金色の髪を靡かせてエスタレーゼが言った。
――愛してもいないのに……?
――違うわ。みんなで幸せになりたいの

「僕は彼女を信じるよ。結婚式には来てくれるだろう? アル」
が、花の影からはチッと低い舌打ちが聞こえた。

――どっちを選ぶ?

「天使様でも運命に抗う事は不可能なのか……」
「抗う? 何故? 僕は真っ直ぐ進んでいるだけだよ。それがたとえ荊の道であろうとね」
「なるほどね」
アルは手の中の金貨を弄んでいた。それから頭上に高くトスして言った。
「裏か……。こいつはおまえにやるよ。懐にでも入れて持ってな」
「大きな金貨だね。いいの?」
「ああ。そいつはおれの代わりだ。持ってな。おれはしばらく旅に出るから……」
「旅?」
「ああ。運がよければまた会おう」
男は運命の岐路に立っていた。
「アル……」
不安そうな顔で立ち去る男の背中を見つめるルビー……。
傷は塞がらない……。塞がらないまま疼いている。

「ルビー……」
花の中からエスタレーゼが彼を呼ぶ。
「エレーゼ?」
振り返った彼の眼にはただ花の影が揺れているだけ……。
「エレーゼ、何処にいるの?」
彼は見回す。
「ふふふ。かくれんぼかな?」
ルビーはクスクスと笑いながら花の迷宮を探す。
「エレーゼ」
広い花の迷宮を二つの蝶の影が戯れる。
「僕はここだよ。出ておいで」
蜂蜜と銀の鼓動……。
「そら、見ぃつけた」
(もう、逃がさない)
薄桃色の花の中……。
彼は笑って近づいて
怯えた蝶を捕まえる。
うつろいやすい春の日の
淡くやさしい陽だまりの中で……。